兎波走り

死にたくない

ミニ日記 4/30

◆ナショナル麻布

ナショナル麻布の買い物の話、そもそも外出はだめな行為なんだよなとかやっぱり書くべきじゃなかったかなとか色々考え続けてしまっている。要は要なのだけど、そう構えてしまっている時点でもう罪の意識がどこかにあるじゃん。以前より買い物に楽しみを求めてしまっているのは確かだし、嘘は書いてないし、書くほどでもない要の外出もしているのだけど公開するかしないのかはやっぱり大きく違う。書き方ももっと申し訳なさ前回の方がいいのか、と思うのは自分が他人の外出に対して感じる小さな砂利のような気持ちの裏返しなのか、とも考えて自己嫌悪に陥ることを繰り返しており、不健康極まりない。贅沢の話もなんだかしづらくなっている気がしていて、どこまでがOKかのラインが自分の中で明確でないことに少し疲弊しているし、いい加減自分の弱い心にうんざりしてきたので筋トレに活路を見出すしかないと思い始めている。相手をワンパンで行けると思ったら自ずと余裕が生まれるとはドランクドラゴン鈴木さんの言葉だった気がする。6年ほど前にカルチャーセンターでシステマ体験講座を受けたから素質はあるはずだ。

 

◆ロシアのネットミーム

この間Tumblrのネットミームについてまとめた時にロシアのネットミームを初めて知り、そのとき開いたこのタブをなんとなく閉じられずにいる: FreeBSDでKDE2にパッチをあてるにはどうすればよいですか?

All your base are belong to usもそうだが世界にはまだまだ知らないミームがたくさんあるんだなと思うしオタクの行動が共通してるのを見るとなんだか安心してしまう

 

◆短歌と裏笑い

数年前から短歌が身の回りで流行っていて、遅れて始めるのがなんだか恥ずかしくてできなかったけどやっぱり色々見てしまっている。ただ57577の区切りがないただの31文字の文章じゃん、と思ってしまう事があってこの辺りがどういう位置づけなのか気になっている。区切りがあるのを踏まえて「あえて」繋げてるのすげー!新しいぜ!という流れなのかもしれないけど素人目だといやルール破ってんじゃん、となってしまう。

自分は似た事を大喜利のネット回答でやったり(あえてむちゃくちゃ長い文を投稿)しているし、正直新しいものにかなり価値を見る人間だったはずなのだけど、いざ何も知らない分野でそれを見るとシンプルに興醒めしてしまう部分があるなと思う。これはお笑いにおいても少し似ている事があって、死ぬほどお笑い詳しい男の子たちが、自分にはただの奇声を上げて進行を阻害している人にしか見えない人を「あいつはすごい」「俺らにはできない」と半笑いで評価している、いわゆる裏笑いの構造に関してもいや確かに面白いけどそれやっちゃおしまいでしょう、と感じた事があるのを思い出した。自分はネット大喜利で同じ事をやっているのではないかと気づいてかなり落ち込んでしまう。裏笑いは一回やり始めるとかなり面白いんだけどどうなんだろう、なんで抵抗があるのかもわからない。そもそも自分が今笑っているのはどっちなのだろうか。まあお笑いと大喜利・短歌では観客が一般人の割合が多いのか経験がある人が多いのかで違うから一緒にできないと思うし、ネタ番組を見て思うところもあったし、答えが出ていないのでまた改めてまとめたい。

 

◆遺書について

今回のコロナを受けて書いた方がいいのか一瞬迷った。あまつさえインターネットで知り合った人とかにはもし自分が急に死んだら何も伝えられないんだなと思ったけど現実の人も一緒だった。きっと今まで死んでいった自分が知らない何億人と同じように死んでなんの記録にも残らないし、そういうものなのだけれどやっぱりなんだか変な感じがする。まあ自分の性格上ノーベル賞とアカデミー賞とグラミー賞を取ってもそう思うのかもしれない。

はっきりあと1日で死ぬとわかっていればまだしも、うっすらの可能性のままの今、現実とインターネットで知り合ったみんなに伝えたい事整理できるのかな

 

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