兎波走り

死にたくない

感情はロボットに任せて

人間はロボットになろうとしているんじゃないかと思っていたことがしばらくある。

 

F1ドライバーや、米粒にお経を書けるとか、平均台の上でバク宙できるとか、そういった「速くて精密で正確」みたいなことが評価されているのを見る時、特にそう思っていた。

 

なんでそれを自分たちが目指すものとする・価値の高いことのように扱うのかわからないし、ロボットにやらせればいい。同時に、私たちがロボットに近づくなら感情面はロボットに任せればいいのかとも思っていたがそういう動きは今の所ないっぽい。もしかすると自分がそもそも価値を置いていない・そういうことができないからそう思うだけなのかもしれない。

 

ロボットになりたい・憧れている自分たちが、色々な機械やシステムを開発し続けていることをインターネット上がりのクソ文章っぽく書くと、「出産している…」みたいな捉え方になるのかなあとも思う。こんなこと書くやつ絶対twitterのプロフィール「物書き」「文章を書いてお金をもらっています」みたいな感じだろ。感情とかはバグだったり不要だったりするのかと二元論で考えている時点でださいのかもしれないが。

 

ただ文化の要不要みたいな話はここのところ聞く機会が増えた気がしていて、それは高等教育の内容に絡めてだったり今回のようにコロナに関してだったりする。

 

「なんかいい感じ」みたいなものが好きなのでそっちを増やしていきたいなあと最近考え始めているけど、これを感情こそが人間活動!みたいな落とし所に落ち着かせるのはちょっと調整つまみが違うところに行っている気がするので、ふんわりさせたままにしている。普通に説明が難しいし、ロボット的なものは綺麗だし理解できるから好きでもあるし。

 

気持ちを分類して箱に押し込めずふんわりさせたままにするのはここ数年やってみていることなのだが、ふにゃふにゃしたことしか言えなくなってきているようでそれはそれで怖い。いろんな要素が混在しているもの(事象って大体そう)の要素について各々の可能性も含めて平等に扱おうとするとそれだけで時間がかかってしまい、どこかで切り捨てないといけない。その鉈を振る体力がないのでゆるふわ女子高生でやっていきたいと思っているのだが、あいにくキキララのペンケースもピンクの髪も星の入った大きな瞳も持ち合わせていないので、いまのところ曖昧に笑ってキャンセルしている。

 

自分が次の記事で「好き」「いまあんまり好きじゃない」だけしか言わなくなっていたら、試作の感情ロボットになったと思ってほしい。

 

今日は雪の写真を撮り忘れた

f:id:hellmotel:20200330004526j:plain