兎波走り

死にたくない

『ヒメアノ〜ル』所感

 

「自分がやってほしいことをやりましょう」
「自分がやられたら嫌なことはしないようにしましょう」
みたいな標語に、結構な反発を感じている。


古谷実の漫画『ヒメアノ〜ル』は、軽々しく好きと言うことに躊躇してしまうけど好きな漫画です。自分の一般が世の中と違う、ということが書いてあってかなり共感してしまった。(少なくとも自分にはそう読めた)

共感したとか浅薄な感想を書くことすら恥ずかしいしおこがましいのだけど、実際そうだった。

 

 

自分の幸せが殺人の形をとると知った主人公(主人公だよ)が泣くシーンがある。

f:id:hellmotel:20200129165051j:plain

数年前に読んでもまだこのシーンが残っていて、いつかビッグになったらインタビューで好きな漫画を聞かれたらこれを挙げると決めている。

名作の条件は、それを後からふと思い出す瞬間があることだと思っているのだけど、これは間違いなくあてはまる。

 


そんなこんなで冒頭の「自分がやってほしいことをやりましょう」さんに出会うと少し意地悪な気持ちの時は「いや、これが私のやってほしいことなので」と害悪の限りを尽くす想像をたまにしてしまう。覚悟があってそれ聞いてます?

 

「じゃあいまからあなたをむちゃくちゃ殴りますね。私は音や視覚のコミュニケーションに鈍いようで、むちゃくちゃ殴られないとあなたが私を見ている・あなたと私の間に確かな関係があると感じられないのです。その後私のこともぼこぼこにしてください、逆でもいいですよ。さあコミュニケーションをしましょう」と頼んだらどんな顔するんだろうか。

 


「自分だったらどう思うか」に依拠したルールには傲慢で、想像力に欠けている穴があって、確率的にはおおよそ有用なルールだけど、でもやっぱり自分はそれで悲しい気持ちになったことがあると思いながら、日々聞き流す努力をしている。ルールの穴をわざわざ指摘するのは子供っぽいということも知っているから。

 

ただこれをもっと掘り下げると「でも自分に置き換えずに・自分の経験を使わずに理解するって無理じゃない?」という問題があり、これはいまだに何の答えも出ていない。カミュの『異邦人』も、たまに思い出してしまういい本です。

 


でもきっとみんな多かれ少なかれそういう異常性を持っているというのもわかっている。人数の過多は特に何の救いにもならないけれど。