兎波走り

死にたくない

すっぱいぶどうの話

「間違っている」とされている人が、自分から見たら全く間違っておらず共感してしまう場面に出くわしてしまって、乖離してるなと思ったら少し悲しくなってしまった。

 

別に当人は怒ったり悲しんでいたりせず、むしろその場は面白の感じではあったので、お笑いの文脈からいえば「おいしい」いうやつなんだと思うし、もしかしたらみんなの中には共感があったけど対立の構図にするのが面白いという判断で、かつその部分が隠されている「プロレス」だったのかもしれない。ただ自分にはどこまでがプロレスなのかわからなかったのだけれど。少し脱線するがこのどこまでがプロレスかわからない問題は、自分がおままごとができない/理解が難しいかもしれない(そもそも幼児期におままごとに誘ってもらった記憶が皆無で検証できていないため「かもしれない」表記、劇は少し観ることができるが嘘っぽいセリフですぐ笑ってしまう)という懸念を抱えていることとリンクしている気もしてじわじわと効いていている。

 

 

・みんなが「おかしいよ」と笑っている人が、全くおかしいと思えず理解できなかった

・それがプロレスだとしてもそれに乗る体力もセンスも自分にないように感じた

・それが「できる」方が価値があるとされている所である

 

場合、それを理解できないまま居続けるべきかという問題が生じるわけだけど、あまりポジティブな答えはいまのところ導き出されていない。

 

これが特殊なダンスだったり、excelの能力だったり、耳垢がカサカサ族だけに通じるものとかなら隔離は比較的楽かもしれない。

ただ今回は「面白」で、それはコミュニケーションや会話に含まれる要素なので逃れようと思ったら「面白くない人」になって、それはネガティヴな評価を伴わないことが少ない、気がしてちょっとしょんぼりしている。しょんぼりは特に何かにつながるものではないが自然発生しているので仕方がない。

 

頑張っている人を笑うことを非難する人、はこれまで自分が見てきた限りあまり面白くなかったので、そういう人と同じだと思われたくないから同じことを言いたくないけれど、おそらく同じことを言っている気がしていて、それもなんだか理由なく少し嫌かもしれない。

 

でもその時自分には、なぜみんな怒っている人の矛先が変だと言って笑っているのか本当に理解できなかった。その人にとっては本当のことをしていてそれがずれている時、私は笑うよりも悲しくなるか、共感をしている気がする。自説の補強のためにそうじゃない時を忘れているだけかな?

 

多分みんなすごく難しいことをやっていて、自分はその部分が(あえて表記すると)知恵遅れなのだと、何度も繰り返しこの結論が現れてきて今回もまたかとなる。進歩をしていないし、同じエントリをしている。

 

「見てられないよ」ってみんな言うけどその裏にどこか上から目線があるように感じて、何様だよって思うけどきっとまたなにか勘違いしているんだろうなとも思う。自分はずっと「間違っている側」を長くやってきすぎて過度に肩を持っているのかもしれない。いろいろな可能性がありすぎて、自分の判断に自信を持つことなんてできるはずがないのでそれなら黙っていればいいのにとも思う。

 

わからない人がやってきてわからないです!と喚くのはとても無様だし、別のところ行けばいいのにというだけの話なので、そろそろ辞めにしたい。


できることがなんとなくそこにある気がして、片隅に入らせてもらっていたけどそこも違うのかなって思ってすこししょんぼりしている。