赤坂の一龍別館のカクテキの味が変わってしまった。
5月6月と1回ずつ持ち帰っただけなのだけど、両方とも味が違っていて大変悲しんでいて、流した涙を繋げて山を縁取っていたらいつの間にか山もその気になってしまったようで別れを切り出せなくなってしまい、かくなる上は村のみんなに頼んで死亡したことにしてもらい顔と髪型を変え都会に出るしかない。痛みから逃げるために別の痛みを経験することになるとはね。
【観測された2つの変更点】
1 皮が剥かれている
皮と中の食感が違うのが一番よかったのになんで、なんで、なんでよおと「理由を聞いている体でそのじつ感情を発露しているだけ」の典型的なメンヘラムーブをしてしまうが、私は誓って本当にこのカクテキを愛していたので仕方がないね。人間に対して愛を囁いたことがないのに食品に対しては臆面もなく伝えられる。そんな人間からも天は奪おうというのでしょうか
一縷の望みとしては、夏だからかもしれない。夏の大根はなんか旬じゃないしなんかありそう、あってほしい、認めたくない。認めたくないよあんたがこんな、見たくなかったよ。せめて綺麗に終わってくれ、ということで1袋を1日で食べたらお腹が痛くなってしまった。匂いが強すぎて冷蔵庫に入れられないからキムチ冷蔵庫(約2万円)の購入まで考えていたのに。好きな女性から別れを告げられた時に未来の構想を語る男の人の造形を何度か見たことがあるけどこんな気持ちだったのかな。お前のために俺はこんな、
2 酸味の消失、味が単調になっている
誰?あなた誰?と半狂乱になってしまった。その日オフィーリアの顔してお風呂入ってたな(ある年齢帯の美大系クラスタのみんな、井上涼さんがオフィーリアを取り上げたことで使いづらくなりませんでしたか?そもそも井上さんが取り上げたの全部使いづらくなりませんか?私はなりましたし悔しかった、見た時ああ〜それね〜はいはいはい〜それね〜あ〜それね〜〜〜〜ってなって悔しかった、思いついたものを捕まえて形にできなかった自分の怠慢が悔しかったよ、悔しい、悔しいけど、私はいつも悔しいだけ、全部忘れちゃう)
いや味はだめよ
酸味がなく、平坦な塩味と辛いだけの大根になっていた。私が好きだった酸味が完全になかった
外見はほぼ全く同じだから今写真を見てもあの酸味があると勘違いしてしまう。幸せな日々を思い出してしまう。ゾンビになったあなたを撃てると思ったはずなのに、いざ見るとだめ、同じ顔をしている
なんでよ
一縷の望み’としては、いつもいたお婆さま店員さんがいなかったことで、これは望みというよりも事象の説明をつけるということだけなのだけど、そういうことなのかもしれない。諸行無常生々流転というだけかもしれない。そしてそれを受け入れられないと騒ぐ自分の姿がどんどん醜悪になってきている気がしている。大人には口をつぐみ微笑んで全てを受け入れるロールモデルしか用意されていない。
【何かを失うということについて】
思い出の場所がなくなることを嬉しいと思うことがあって、それは主にあまりよい思い出がない大学時代に往来していた中央線沿いの駅がリノベーションした話などで多い。
「懐かしい」という感情は人にとって大変気持ちがいいと聞いたことがあり、その要素に意識的になっていた時期があった。自分にとっても過去の思い出話は大変気持ちの良いものだったので、飲み会などで面倒になると昔の話をしてもらうよう仕向けたこともあった。
そういったリノベーションに対して保存運動をする人の中には懐かしい記憶、土地に紐づいている記憶を守っている人もいるのかもしれない。自分は古い建物が好きだけど、小さい頃遊んでいた場所に行こうとは思ったことはない。生まれた土地を訪ねる企画をTVでやっていたりもしてきっと本人になったら大変「エモい」のだろうと思うが、いまのところ積極的に行きたいと思わない。これまでの人生であまりよい思い出がないからだったとしたら嫌だな。ネガティブな記憶の方が残りやすい傾向を持つタイプだからなのかもしれないが、白い砂浜で泳いだ記憶はよいけど別に確かめなくてもよい。もしかすると5分前に機械から埋め込まれた記憶なのかもしれない、と考えるとむずむずして考えが止まってしまう。
記憶喪失は創作物のモチーフとしてよく使われるけど個人的にかなり向き合いたくないテーマの一つで、認知症の人はどこからどこまで「その人」であり続けるのかな?みたいなやつを考えるとしょんぼりしてしまう。友達が記憶喪失になってもなんとなくまた再構築できる気がするけど、それが家族だったら何かがぶれてくる気がする。それは単に過ごした時間・使ったエネルギーの量が多いからかな?自分は血のつながりをどこまで特別視しているんだろう?
私が時間とエネルギーを使った一龍のカクテキ、の顔をした一龍のカクテキじゃないものについて、まだ受け入れることができない。喪失を味わいたくないから一生誰も愛さないと決めたのにまた愛してしまってまた失ってしまった。あと何回繰り返せばいいのじゃ…儚きものたちよ…わらわを置いていかないでくれ
多感な時期にネット小説なんて読むんじゃなかった。こういう「定形」というかミームがすぐ出てきてしまう。それをそうだと認識して振り払って最初に見えた方のなんかの尻尾をつかむのがだんだん難しくなってきている。みんなが見たいものは奥のあれだと知っているのに。
どうやらいままで使えていた回路達が焼き切れてしまっているようでだんだん動かなくなってきていて、胸にあった真っ白な球にはヒビが入り続けたのかとうとうこの間ぐずぐずになってしまった。
執着していたものがなくなることに、ビル爆破動画を見るときのような、破壊に対しての気持ちの良さと喪失感の両方を覚えている。渋谷駅も、パルコの地下も、タワーレコードも、頼むから全部なくなってくれと思うしなくなってくれて嬉しい。嬉しいけど、その代わりになるものがなぜか見つからない。見つかっている予定だったのと思いながら新しい人と会って新しい場所にいく。何かを失うことにはいつも慣れないので可能な限り少なくしたい。こういう姿勢の人間は得るものも少ないってネットの定形でさんざん見てきているのに、また主人公のパーティーに参加できずに村から見送っては泣いている。
一龍のカクテキは夏だったから、お店の人がたまたま代理で作ったから、たまたま漬けてすぐだったから、味が違っただけかもしれない。いやそうに違いない。きっと次に行ったら元に戻っているはずだ。
確認はちょっとまだしないでおく。