兎波走り

死にたくない

好きが無理になった話

ここのところ自分が死体なのに動いていておかしいなと思い続けている。

 

刺激を与えたら戻るかと思っていくつか手癖に任せてみても悪い結果に終わっており、悪い流れの時は抗わずにじっとしていればいいものを更に見苦しいことになって死体の死体ぶりがひどくなっていっている。ロキソニンのようについていた嘘のストックもなくなりつつあり、いよいよ人間の形をとどめておけなくなっている。

 

 

好きが無理になった話

 

 

この間誰にもしたことがない話をして、そのあと思ったよりも変な感じが続いているので記録してみようと思う。

 

大学を卒業して就いた仕事はとてもつまらなくて意義を見出せず落ち込んでいた。3つ上の先輩が自分に好意を表明してくれたが、一度は付きあえないと言ったもののその後なんだかんだでずるずるとお付き合いをさせていただいたことがある。
その時自分は好きがわからないけどいいですかというような事をぐにゃぐにゃと言っていたが、相手はそれでもいいよと言ってくれた。


自分はもちろんそうやって言ってもらえる程度に関係を深めるほどには相手のことを好きだったし一緒に話したりした。ただ、最初から最後までなぜかこの人とは結婚しないんだろうなということがずっと頭にあった。それとその人とは関係なく、当時の自分の社会的な位置づけへの不満、仕事をもっとちゃんとしたいということの方に意識の大半がとられていた。

 

プライドや過度な期待の割に全くなんの成果も出せていない自分にとって、その人は承認欲求を満たしてくれる唯一の人だった。それよりもひどかったのは「ここでこうしたら喜ぶだろう」と予測 - 検証を繰り返してその効果を確かめていた自分がいることで、それを明確に意識した時、自分を本当に冷たいと思った。それ以来その人を騙している、嘘をついていると思いながら、ごめんなさいと思いながら一緒に過ごした。

 

その人は本当に本当に優しい人で、こんな優しい人が自分を好いてくれているのになぜ自分は同じだけの感情を返せないのかとも思った。人を好きになるなんて素晴らしい事なのに、なぜ自分はそうじゃないのか、それを返せないのか不思議だった。

 

なぜ自分は結婚しない、つまりいずれ別れると感じているのにこんなに優しい人の人生の時間を使わせているのか、喜ばせる事をどこかでゲームのように感じている時があるのか。そういった色々を総合するに、自分は人を好いてはいけないと思った。これはこの人を幸せにするゲームじゃないし、他人を人形のように扱っていいはずがない。

 

お別れの話をしたときに、その人が「なんかわかってた」と言ったこと、いつか映画の話をした時人前で泣いたことがないと言っていたのに「〇〇さん俺泣いちゃったよ」と本当につう、って涙を流していたこと、全部思い出したら今でも泣いてしまう。3ヶ月間の間、私はその人のことを下の名前で呼ぶことができないままで、その人も合わせて名字で呼び続けていてくれた。

 

もしかすると当時の自分は自分なりにその人のことを好いていたし、気持ちの定義にこだわりすぎていただけと解釈することもできるかもしれないけど、こうして自分は人を好きになる資格がないと思った。

 

その会社から転職をして、忙しくなったという理由で会わなくなったあと、毎日昼休みにランチへいく横断歩道を渡るとき、その人に心の中で話しかけていた癖がまだたまに出る。

 

Tさん、お元気ですか。私は元気に働いています。今月は残業が100時間を超えてしまいましたが、いろんな人と会えて楽しいです。

みたいな感じなんだけど、この先はいつも続かなかった。

 

これらはもう4年くらい前のことなんだけど、こうして書いても、やっぱりなんて事をしてしまったんだろうと思う。あんなに優しくて素敵な人を自分は自分のエゴで悲しくさせてしまった。

 

そしてこれ以来、好いた惚れたの話が無理になってしまった。拒否反応や嫌いというわけではなく、ただぼんやり紗がかかった話のように感じられてしまうようになった。まあそれ以前は理解していたかも怪しいのだけど。

 

 

自分はその人とイベントを迎えないように気をつけていた。クリスマスやバレンタインなどは、「本当の人」と思い出を作ってほしかった。ただ誕生日を迎えてしまったときに、その人から綺麗な黄色の名刺入れをもらってしまった。今の仕事では人と会うことがあまりないから次のお仕事ではたくさん会えればいいね、とくれたその名刺入れは、使うことがなく今も机の中にある。