兎波走り

死にたくない

noteとブログ、華と芸能人あるいはYouTuberの話

noteもやってる。ブログにも同じ記事を載せてる。

(嘘。noteの方が2018年度の記事が多いしブログには反町隆史の記事がある)

 

個人的にはどちらもあまり定期的に読まないのでどっちもやるか、という感じだったんだけど、ネットの記事どんな人が読んでいるのかよくわかっていない。ネタ系のオモコロとか意見系・お役立ち系のnoteくらいしか読まれてないイメージが勝手にある。(編集注:筆者の知的生活レベルが貧困なだけでは?)

 

そもそも難しい文章をモニターで読むのと紙で読むのでは理解度が違う気がする。誰か検証してくれ私はそれ見て知ってたってTVの前で叫ぶ老害になるから

 

でもさ、その辺の人間のあれ好きこれ嫌い、これ見たこれ行きたい、みたいなだらだら日記ポストはいま山ほどあるけどそういうの読みます?例えば私が学生だとして好きな人がブログやってたら読むだろうか?読む。その人のデータ取りまくって自分を合わせてそんなの全く読んでないフリして好かれる人になろうとするだろう…はーあ全ての人から好かれたい♡(自己を犠牲にして相手からの承認を優先し、いずれ自己肯定感を得られないまま成人してしまう危険思想)

 

好かれる人といえば芸能人だけれども、芸能人とYouTuberの違いについて考えたことがある。その時は結論として「華の有無」に行き着いた。

 

“華”は説明しづらいのだけど所謂「目を引く」「舞台映え」「光ってる」のようなもので、私は人を見るときたまにその基準で考えることがある。例外はたくさんあるし、なんでこいつが…みたいなこともよくあるのだけど、なんとなくどこを見るかというと

 

・眉間がぱかっとしてるか、濁りがないか

・透明度、周りの空気の色

・練れてる感

 

の3つくらい…いや文字にしてみると我ながら全くわかりづらいし何様が判断してるんだと申し訳ない(←学習した社会性の発露としての申し訳ないなので重みがない)

 

まず眉間、というかなんだろう、目周りがなんとなく突き抜けている、濁っていたり詰まっている感じがないかどうかは、初対面の人についてもたまに見てしまうことがある。自分はいま過去最高に濁っているので非常に鏡を見たくないのだが。これは男性女性で変わらない。清潔感、という形容詞でもいいのかもしれない。とにかく、濁っていない人は濁っておらず、奥まで続いている感じなのだ。

 

次に若干被るのだけど透明感というか、その人の周りだけ若干その人の空気になっていことがあって、、、あれ、オーラ…か………?スピリチュアルは興味はあるし面白いけど私はアニミズムなのでなんとなく今は踏み込みたくなく割愛する。

 

最後の練れてる感についてなのだが、なんだろうな、今一度これらは該当しないけどすごい人もたくさんいるんでまじに話半分以下で聞いてほしいんだけど、たまに、何かを積み重ねてきた人、とか何かをたくさん考えたり経験してきたのかな、というような人に、「中身が詰まってる」という感じがすることがある、というより、相対的にその人に並んだ人がぼやっとして見える感じ?パーツがきゅっとなってなくて全部広がってる、ゆるい感じというか………こ、小顔、か?????

 

 

まあ大体その辺りが、芸能人と非芸能人を分けるひとつの境目なんではないか、と思うことがある。もちろんこれは可変のものなので絶対ではないし、アイドルはよく「垢抜けた」と評されるくらい人はすぐ変わるので、全然あてにならない。ただ、なんとなくその指標について考えることがある。

 

 

いうわけで、華のある人間になりたいものだと思いながら今日もどんよりした眉間を人様に晒してしまっている。

 

 

これはちょっと判定が難しい窪塚、私はわりとガチで窪塚になりたいと思っている

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