兎波走り

死にたくない

趣味と飽きについての現状報告(前)

 

推理小説を数ページ読んで、終わりを確認してまた読み進めることがある。

おそらく安心したくてやっている行為だと思うが、自分でもなぜかうまく説明できない。

 

何もかもに過去が邪魔してくるようになっている気がずっとしている時と、なにもかも忘れて砂の心臓で立っている時とを往復している。

昔猫を飼っていたことがあって、亡くなった時とても辛かったのでもう二度とペットを飼うことはないと思う。
昔心を砕いた人を今だに思い出してしまうので、もう二度とそんなことをしないと思う。
昔誤った人を大切にしたので、もう二度と信じないと思う。

いずれ来る痛みの予感に怯えずに今だけを楽しめる人を羨ましく思う。

 

 

不老不死の人がどんな気持ちでいるのかについてとても興味があった時期があって、それは飽きとか記憶について考えていた時だった。過去の経験や記憶を無くせるなら迷わずする。それ自体が目的ではなくて、過去の経験のせいで飽きとか無感動とかが生じているような気がしているからで、記憶を無くしても今の心が石になってしまった感じが消えないならやってもしかたがないのだけど。

 

ここ半年、傷を見せびらかして注目を得ることしかできなくなってしまったように感じていて、それは自分の望むコミュニケーションの方法ではなくて、ブログにそういうことを書いてもつまらないので治ればいいなと思いながらここまできたが治らないようで仕方がない。なんの進歩もしていないので具体的な誰かではなくでもなんとなくいる気がする誰かから見放されそうだと思う。

 


一度他人に頬を叩いてみてくれと頼んだことがあって、それは自分は鈍いので他人の認識が甘いのだが、叩かれているその瞬間だけはその人が自分を見ているとわかるのではないかと思ったからで、結果としては痛かったしびっくりしたのであまり覚えていない。人と殴り合いをしたいと思うことが最近少なくなってきている気もする。単純にこれは成長などではなくなにかの感度が鈍っている、つまりは飽きや老いや死だと思う。

 


恐怖で自分を縛ってここまで真っ当な人間のふりをがんばってきたけど、意外と自分がスライムであるところを見せても受け入れてくれる人もいて、でもその人は人間なのでどうしたらいいのかわからない。

 

こちらが心を許してたくさんスライムのところを見せたら絶対びっくりしていなくなるくせに、とどこかでずっと思っている。

 

当事者ブログなんてやりたくないし、楽しいことや美味しいものについて話したいのにそういったものが何もないのが続いて困っている。

 

 

不老不死の吸血鬼か何かが人間と恋に落ちて、いずれ終わるなら今すぐに終わってほしいと思って殺すところは見たことがない。あなたと出会えた50年は出会えなかった1000年より尊い、みたいなことを言ってる。
猫なんて飼わなければよかったし選択なんかしなければよかったと思ってしまうが、それは本当の愛を知らないからみたいなことで処理してしまっていいのだろうか。

ちなみに猫は、私に友達がいないからという理由で親が誕生日に動物病院から引き取ってきた。


いつか終わるならなぜいましがみついているのかと思いながら、趣味の大喜利を無感動に続けているので、死んでいることに気づいていないだけなんだろうと思う。

 

 

と思っていたのが前編