兎波走り

死にたくない

青を青と呼ばない

 

へーあの人19で関西から出てきたんだ。とか、ああ牧師の娘なんだあ。とか、毎日色々名付けて処理してしまっている。早く処理できるから便利なんだけど。

 

ここのところ、自分が何を書いても、はいはい○○の人がまた生きづらいって言ってんのね、とか、はいはい○歳神奈川中流家庭生まれ中高私立文系でアートかじって(永遠に続くレッテル)……の人ね、とかで処理されてしまうのでは?と思ったらなんだかやる気が出なくなってしまっていた。

 

自分だって毎日そういうことをやっているし、あるある大喜利なんてその最たるものなのに、名付けられ処理されると思うことでなぜこんなに気持ちを削がれてしまっているのかわからない。もしかすると自分だけは特別だと思っている普通の人だからなのかもしれないし、自意識過剰なだけかもしれない。

 

目の前のものを「青」と呼ぶことで、なにかを切り捨ててしまう、と思ったことがある。それを「青」と名づけてしまったら、周りの美しい粒子がばつんと切り取られて、後にはやせ細ったなにかしか残らない気がして怖くなった。その時から物事を明確に規定することをちょっと避けるようになった、気もする。何も断定しないように意識しすぎて「かもしれないね」とか「わかんないねえ」と決断力がない人間になってしまっただけかもしれず、これはこれでどうなんだ、という話ではあるが。

 

名付けたくない気持ちや風景があるのはありがたいことだけど、反面、言葉で事象を切り取る暴力性に負けていたら会話ができないらしい。そんなぁ。誰かと話すなんて面倒、そう思っていた私、でもその面倒くささを超えて繋がりたいと思える誰かが・できたんだ…みたいなpixiv小説書こうかな。

 

手を握るだけで通じることができればかなり楽なのになあと思うが、そもそも自分は生まれガチャで他者伝達Dのハードが配布されているようなのであまりこういった難しい問題を考えないようにして暮らしていきたい。

そんな風にしていながらも、たまになんとなく私の近くの星に住んでるっぽい人がいてこのタイプの人はあまりたくさん話さなくても通じるのが早いのでかなりありがたい。

 

青も青-1も、透明も緑も、全部ひっくるめて共有したいといつも思う。私と地下茎で繋がっている人がもう少したくさんいたら結構楽なんだけどなあと考えながら、色の名前を重ねて重ねて、言葉の境目にある名前のない美しい粒子を復元して、元の風景に限りなく近づけてお出しする努力をしている。かもしれないねえ。

 

f:id:hellmotel:20191123003431j:plain